真の「 本質 」や真の「 今( 刹那 )」など、このブログで「 真 」をつけて説明するのにはきちんと意味があります。
ここでの「 真 」とは、「 最終 」などの「 これより先がない 」「 これ以上ない 」などを指しています。
前回のシャーマンによる儀式でも、不思議な体験をしたいだけの人たちと「 本質 」を求めて「 純粋 」に近づいてきた人たちとでは、得るものが大きく違うように感じます。
前者は生きていく上での障害がいくつもあるため、「 恐怖 」などを体験することが多いようです。
後者は、「 本質 」へ向かうにあたっての障害がいくつもクリアされているため、深い「 感謝 」などを体験することが多いようです。
これは前者が「 自我 」の増幅に対して、後者は「 自我 」を超えた認識をするからなんですね。
もちろん全員が同じようになるとは限りませんが、どこまで「 純粋 」に成れているかによって、認識できる深さも変わってきます。
ですが「 純粋 」であってもなくても、「 真 」の「 純粋 」ではない場合は大体同じような「 想い 」が生まれます。
それが、「 死にたくない 」や「 元に戻りたい 」などです。
前者は、心身の苦痛などによる「 恐怖 」によって発生します。
後者は、「 真我 」による認識が浅く元の世界への「 未練 」が残って発生します。
この「 真我 」による認識が深くなるほど、「 未練 」は薄れていくため「 戻りたい 」などは発生しにくくなるのです。
その意識の深さを、密教では十段階の「 識 」で表しています。
ただ十識目の詳細は余り情報がありませんので、それを踏まえて颯清堂的な見解で簡単に説明していこうと思います。
まずスピリチュアルなどで、すべての情報が記録されている「 アカシックレコード 」を認識している領域が、八識の「 阿頼耶識( アラヤシキ )」で「 真我 」の浅いものになります。
そして、そのような情報だけでなくすべてが無くなった「 純粋 」を認識している領域が、九識の「 阿摩羅識( アマラシキ )」で「 真我 」の深いものになります。
最終は、認識も無くなり一体となっている十識の「 乾栗陀耶識( ケンダツダヤシキ )」で、「 真 」のみになります。
九識まで行けば「 戻りたい 」ではなく、「 このまま 」となり「 想い 」も発生しません。
ですからそれは、人としての命を終える「 死 」になります。
ただ自分がどのくらいの「 純粋 」のレベルかによって、その領域に居られるか変わってきますので、八識になって人に戻ってくることもあります。
また、訳あって強制的に戻らされることもあります。
これは、十識になっても同じです。
ですから、なるべく「 このまま 」つまり「 純粋 」を認識し続けれるほど、「 真 」である「 愛 」や「 至福 」を認識し続けられるということなのです。
とは言え、ほとんどの人はまた戻ってくるでしょうから、出来るだけ「 純粋 」の純度を深めた「 境地 」で得たものを持ち帰って、この世で活かしてください。
今の流れはこれらを助けてくれるはずですので、「 純粋 」に導かれてくださいね。
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