多くの人は 、「 誠実 」というと「 清廉潔白 」「 品行方正 」のように歪みのない完璧なのを、思い浮かべるかもしれません。
しかし私たちが「 人 」として生きている以上、100パーセント正しい行いをするということは、ほぼ不可能に近いと思います。
なぜなら、それぞれの価値観や従っているルールによって「 正誤 」が変わってしまうからです。
それでも「 誠実 」でいたほうが「 天の御助け 」を受けやすいとするならば、どのような「 誠実 」がいいのでしょうか?
日本の人たちは、海外の人たちから見るとさまざまな気遣いが「 誠実 」に見えるようです。
多くの人は「 列に並ぶ 」「 横入りしない 」「 ゴミを道などに捨てない 」など、「 ルール 」に従って「 誠実 」そうなことを気づかずにしています。
ですが、「 ルール 」でなさそうなことまですることは余りありません。
私自身にあった例で話すと、スーパーなどの駐車場で置き場に戻されず放置してあるカートをよく目にします。
そのすぐ横を通る人もいますが、ほとんどそのまま通り過ぎるんですよね。
それで車を止めようとしたとき、なぜかがすぐ近くに放置されいたりすることも多くありました。
そんな時は、カートを店に入る途中の置き場などに片付けておきます。
これが何回も続きましたが、最近は特に気にすることなく実行していたんですけど、昔からそうだった訳ではありません。
昔は放置されていても無視しており、放置して片づけない人に対して怒りさえ覚えていました。
そしてある時、動きが不自由な高齢の人がカートの荷物を車に乗せた後に、放置するパターンを目撃します。
実際には健康でも面倒で放置する人たちもいますが、障害を持っていたり高齢な方は戻すのも大変だと思いましたし、整理する人も面倒だと思いますし他に車が接触して傷をつけてしまうかもしれないということで片づけていたら、そのうちあまり気にならなくなっていきました。
他にも商品棚から落ちている商品を棚に戻したり、衣料品売り場でハンガーから落ちている服を掛け直したり、クシャクシャにされた服をたたみ直したりなども、気にすることなくやったりしています。
ただワザワザ遠くのものを近づいてとか、必ずやるという訳ではありませんが、割合は高い方だと思います。
こうなってくると、「 ルール 」でやっている訳ではありませんよね。
そして時々同じようにやっている人を見ますが、やはり「 誠実 」そうには見えます。
ですが、その中には「 天の御助け 」などの「 欲 」や「 見返り 」を求めてやる人たちも、少なからずいるでしょう。
まあ、ほとんどの人は知らん顔ですからそれがダメということではありませんが、それでは「 誠実 」さは薄くなってしまいます。
ですから「 欲 」や「 見返り 」を「 求める 」「 求めない 」というものではなく、「 気にもしていない 」という状態から自然と湧いてくる「 優しさ 」や「 思いやり 」などに従い、「 素直 」に行動に移していくことが重要です。
その時「 正誤 」は関係なく、すべて自分の中で処理されます。
「 正しい事をした 」というのも有りませんし、相手の反応もあまり期待しませんし、見返りも気にしていません。
つまり周囲からは「 誠実 」のように見えても、自分自身は何も気にもしていないのです。
この「 何も気にもしていない 」状態というのが、実は心が「 フラット 」な状態を保持していることを指します。
そこから何も感じずロボットのように機械的にするということではなく、心の奥から自然と湧いてくる感覚に従うことが大切なのです。
それが自分自身に対しての評価などは気にしてなくても、周囲に対しての押し付けない気遣いなら、多くの人の「 心地良さ 」に繋がることもあるでしょう。
ひとたび、この感覚が判ればいろいろな場面へ波及して範囲が拡がりやすくなります。
範囲が拡がれば期待せずとも、より「 誠実 」さが拡がり「 天の御助け 」もより拡がることになります。
先日も別件で立ち寄ったホームセンターで、大容量SDカードが半額以下からの更に半額で売っていました。
丁度、データ保存用の空き容量が少なくなってお値打ちなものを探していたので、一流メーカーではありませんがハイスペックだったのもあり、ありがたく購入させてもらいました。
最近はこのようなチョットしたことなら、とても頻繁に起こっています。
他にも、いろいろと思いがけない「 天の御助け 」があり、とても助かっています。
このように「 天の御助け 」をよく感じられるのなら、みなさんの「 誠実 」が拡がっている証かもしれませんよ。
感じられないのなら気づいていないだけなのか、「 誠実 」さが狭いのか「 誠実」さが無いのか、自身で観つめてみてくださいね。
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